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概要

 楢岡焼の始まりは江戸末期にまでさかのぼります。今から140年以上も前、秋田の内陸にある山村---南楢岡の地で焼物を焼いたのが最初と言われています。

 地元で粘土は採れるものの、決して使い勝手の良い粘土ではありません。乾燥時にヒビが入ったり、焼くと変形したりと、なかなか思うようにいかなかったと伝わっています。試行錯誤を繰り返して何とか対処法を見つけてようやく軌道に乗った矢先、交通網の発達によって安価な陶器が出回り、大きな打撃を受けました。当時、南楢岡の地には私共の窯元(角右衛門窯)以外にも数件の窯元がありましたが、現在まで残っているのは1件だけとなってしまいました。

 その後、伝統と技術を守りつつ、より日常に溶け込めるような器作りを目指しながら現在も切磋琢磨を続けております。
文献と伝聞をもとにした年表

区分年代沿革





弘化元年
(1844年)
陶祖小松清治は、大杉山岸に生まれる。屋号を代々角右衛門(かくえもん)と称し村役組頭給人組代を務め、佐竹藩士半田茂助は角右衛門の知行主であった。清治は半田氏の紹介で寺内焼にいた工人(実は相馬焼から来た陶工だったという説が有力)の手ほどきを受ける。
文久3年
(1863年)
清治、20歳で大杉瀬戸を創業する。
明治元年
(1868年)
角右衛門の隣家に権三郎という人がおり、12歳から清治のもとで働いていた。この年、17歳になった権三郎は山形の平清水へ単身修行に出向く。
明治6年
(1873年)
清治の次男、宇一生まれる。(後の2代目。なお、清治の長男菊治は製陶を嫌って後に北海道巡査となる)
明治10年
(1877年)
山形の平清水でひとかどの窯を持つ陶工にまで成長した権三郎は、帰郷し再び角右衛門窯で働く。(清治33歳、宇一4歳、権三郎26歳)
清治は創業以来陶土の耐火度の問題で失敗を重ね、田地3町歩、山林30町歩余りを投資し物心共に危機的状態であった。そのような時に、粘土に砂を混入する素地土調整の技術を身に付けた権三郎を迎えた角右衛門窯は活気を取り戻した。
後日3代目弥一が権三郎のことを「弟子とも仲間ともつかない時代があった」と語っているが、まさにこの時代のことを指している言葉である。
清治は権三郎から学びつつ、一方では山形の佐七、白岩の友治等の陶工を招き、陶土の耐火度の改良、大型のかめ、こね鉢等の製法に励み、その経営もようやく軌道に乗り出し大杉瀬戸の最盛期に続く。
明治13年
(1880年)
権三郎独立し、自宅裏山に「権三郎窯」を創業する。
権三郎の作品は、平清水の系統で高台が小さく、胴、肩、口縁の線の膨らみが優美で権三郎ならではの作品を残している。
明治38年(1905)頃蓄財をはたし老齢で廃業する。
明治20年
(1887年)
弟石蔵、独立して石蔵窯を創業する。続いて平助窯が創業する。
この2窯とも失敗に失敗を重ね蓄財をはたし短期間で廃業する。
清治四男、弥一生まれる。(後の3代目。2代目宇一には実子がなかったため、弟の弥一を3代目とした)
明治31年
(1898年)
初代清治他界。(55歳)
大杉瀬戸の最盛期は、明治20年頃から明治35〜36年頃までと言われている。




明治41年
(1908年)
2代目宇一は、角右衛門窯を弟の力蔵(清治の三男)に譲り、交通の便利な現在地(高野)に築窯する。(宇一34歳、弥一20歳)
この時から「楢岡焼」と呼ぶようになる。以来大正、昭和と不況の時代を乗りきり、「高野の瀬戸っこ」と親しまれ日常雑器、徳利、水がめ、すり鉢、こね鉢、片口等の製陶を続ける。
明治43年
(1910年)
弥一の長男、幸一郎生まれる。(後の4代目)
昭和2年
(1927年)
2代目宇一他界(46歳)。名工中の名工として知られ、常泉寺蔵「亀型水器」「狛犬(こまいぬ)型香炉」「陶祖清治の陶碑」等の作品を残す。
昭和10年
(1935年)
下りものの安値で大打撃を受ける。
昭和15年
(1940年)
3代目弥一の作品である、かめと片口茶器が東京三越で開催の東北民芸展で特賞に輝く。
昭和17年
(1942年)
4代目幸一郎は弟の幸次郎(菅沢焼/角館焼創業の人:1912-2000)を伴い、常滑、多治見、名古屋、四日市を視察し大規模生産を企画したが、戦時統制により土管製造を強いられる。
昭和20年
(1945年)
4代目幸一郎は戦後の製陶に展望を求めて単身多治見の窯を訪れ、技術研究をする。
昭和23年
(1948年)
幸一郎の長男、哲郎生まれる。(後の5代目)
昭和24年
(1949年)
益子辺の大型かめや鉢類の投げ売りにあい、楢岡焼の前途いよいよ暗くなる。
そこで製陶に限りない愛着をもつ弥一、幸一郎親子は愛陶家や地域住民の需要に応えるため、特別の登り窯を築いて楢岡焼の灯を守る。
昭和28年
(1953年)
愛陶家、小野正人、田口松圃、嵯峨勘左衛門氏等が訪ね復興策を練る。
昭和29年
(1954年)
秋田大学野口教授、陶芸家加藤唐九郎、県工業試験場野口技師の指導で窯の構築、粘土の試験、釉薬原料の調合、焼成等の試験操業を行う。
昭和34年
(1959年)
専業として製陶を再興する。
昭和51年
(1976年)
3代目弥一他界。無欲の好々爺で90歳までろくろを挽き、戦中戦後の危機を守り続けた。
昭和58年
(1983年)
南外村の無形文化財に指定される。(現在は大仙市指定無形文化財)
平成元年
(1989年)
4代目幸一郎他界。県文化功労賞受賞、村無形文化財。
登り窯を改築。

受賞歴

受賞
昭和16年1941年東北民芸展賞(4代目)
昭和50年1975年日本民芸展最優秀賞(4代目)
昭和53年1978年秋田県展奨励賞
昭和54年1979年日本民芸館長賞
昭和55年1980年伝統工芸武蔵野展奨励賞
昭和56年1981年日本陶芸展入選
昭和57年1982年伝統工芸武蔵野展入選
昭和58年1983年秋田県文化功労賞(4代目)
昭和62年1987年日本陶芸展入選
昭和63年1988年伝統工芸新作展入選
平成2年1990年伝統工芸新作展入選
平成4年1992年日本民芸協会賞
平成7年1995年日本陶芸展入選
平成13年2001年日本陶芸展入選
平成21年2009年伝統的工芸品産業功労者褒章受賞
e-mail:info@naraokayaki.jp

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